窓ガラスがミシミシと音を立てている。カーテンを開けると、洗車機の中に居るみたいだった。その台風は記録的な規模で、テレビは何度も注意や避難を呼びかけていた。都内でも数十年かぶりに多摩川が氾濫して浸水被害が発生した。今それは令和元年大水害と呼ばれている。あのとき、僕たちはおしり合宿の真っ最中だった。
「病院は頑丈だから、家に居るよりは安全ですよ」
看護師さんはそんなことを言っていたが、僕は気がかりなことが一つあった。
この病院のすぐ裏には、一見分かりにくいが一級河川が流れている。この河川のライブカメラが市のサイトで閲覧できて、それがかなり危険なことになっていたのだ。辞典の「なみなみ」の挿絵にしてもいいくらいの「なみなみ」だった。いくら建物が頑丈でも、浸水したらひとたまりもない。
気になって検索したハザードマップでは、この病院付近だけ土地が低く、少し危険な黄色で塗られていた。病院の立地を考えていなかったのは迂闊だったか。いや、病院の立地を考えてから入院する人なんて居るだろうか。というか、よりによって今そんな台風来ないでくれ。僕たちはいまおしりが弱っているのだ。僕はたまたまパスケースに入っていたダムカードを眺めた。がんばれ土木。
大橋さんに「なみなみ」の画像を見せると、案の定ものすごく怖がってくれて嬉しかった。
「これワンチャン避難ある?」
チャンスではなくてピンチだと思うのだけど、避難はあるかもしれない。ハザードマップによると、ちょっと離れた高台にある中学校が避難場所に指定されていた。
「中学校に避難しろって書いてますね」
「ここまで歩くの? この状態で?」
「無理っすよね。フフ」
「でも、ちょっと面白そうだよね」
ちょっと不謹慎ではあるが、そんなのも良いな、という気もしていた。記録的なあらしの夜に、おしりを押さえながら中学校を目指す、おしり部の記念行事。恩田陸の「夜のピクニック」みたいだ。
「まず道を渡るのが難しいですよ」
中学校へ行くには大通りを渡る必要があるが、幹線における歩行者用信号の時間は短い。僕たちの歩行速度で渡りきれる気がしない。病院を出て一分、ゲームオーバー。何気ない街の構成物が、性能を制限された我々の前に敵として立ち塞がってくる。
「ちょっと行くと歩道橋があるからそこかな……」
さすがタクシー運転手は道路に詳しい。階段はおしりに響くが、背に腹は代えられないだろう。暇な僕たちは、中学校への避難ルートの検討を続けた。
この日の夜、大橋さんはおそらく初めてナースコールを押さなかった。おしりと同じくらいのピンチが外部にあることで、痛みをいくらか忘れることができたのかもしれない。外は豪雨だったが、僕たちは初めて静かな夜を過ごした。幸い一級河川も氾濫することはなかった。
手術から数日経ったが、大橋さんはロキソニンを結構な頻度で飲んでいた。看護師から「ずっと飲むわけにもいかないし胃も荒れるので出来るだけ卒業していきましょう」という指示があったので、僕は痛いながらも日中は断薬してみたり試していたのだけど、大橋さんはガバガバ飲んでいたように思う。まあでも、大橋さんはいぼ痔を四つも切ったのだ。人の四倍痛いのである。
「我慢できるようにならないと退院できないよ? 慣れていきましょう」
と看護師の注意する声が漏れ聞こえてきた。
「いやでも痛いですよ。俺二つも切ったんすから」
そうなのだ。大橋さんはいぼ痔を二つも……えっ二つ?
大橋さんは、僕にいぼ痔の数を二倍で申告していた。僕が痔瘻だというからとっさに対抗したのだろうか。大橋さんは、こういうかわいいところがある。しかし大橋さんの中で、痔瘻はいぼ痔四つ分なのか。僕は少し、誇らしくなった。