最近はインターネットを使わずに過ごすことをデジタルデトックスとか言ったりして、インプットを抑えることが良いとされるシーンがある。ところで僕のようなひどい近親が裸眼で過ごすこともそれに近い効果があるように思う。特に、近視と風呂のコンボは強い。しょぼい視力と湯気が織りなす曖昧でとろけた世界は、風呂の概念と相似形で心地よい。ところがこの前とても久しぶりにコンタクトを入れた日があって、しかもうっかりコンタクトをつけたまま風呂に入ったところ、いつものやさしい風景は冷徹なリアリティを持って僕の網膜に投影された。天井隅のカビ。ファンのふたを塞ぐほこり。うわあ。掃除しよっと。下を見ると金玉が3つあった。ワオ、一般男性の1.5倍。楽天プラチナ会員だから?
もう少し具体的に言えば、陰茎の横あたりにピンポン球のようなしこりが出来ているのを発見した。押しても特に痛くはなかったが、その雄々しさには手遅れの感じがあった。だから、たまには嫌々ながら相応の視力をもって裸体と対峙しておくべきなのだ。
腫瘍かしら。嫌な予感しかない。ところで、どうも腑に落ちないことがあった。なぜこいつは、このピンポン球は、こんなになるまで気づかれなかったのか。さすがに、こう、ねえ、風呂では見逃したけど、生活していて気づかないかね、そうよ、例えばトイレよ、トイレで気づきそうなものだけど? と訝しんだのだけど、 こいつを観察するうちに、自分が座ったり横になったりして骨盤が寝るとスッと引っ込むことに気が付いた。こいつには「ハウス」の能力があった。家にも会社にも洋式トイレしかないので、トイレで僕は座る。するとこいつは「ハウス」に引っ込む。用を足したあと僕は立つ。すると「ハウス」から出てくる。故に気づかれない。まさか、知能がある!?
軽くもむと、こいつは、ちょっとやわらかいのだった。一般的に悪性の腫瘍は硬いという話を聞いたことがある。こいつはそうではない。「下腹部 やわらかい しこり」で検索する。一時期インターネットを跋扈していた嘘の病気情報を垂れ流すスパムサイトは影を潜めており、近年は病院のサイトが上位表示されるようになった。さらに最近は、それらで学習したAIが慎重に言葉を選んで要約してくれる。それによると、病名の候補は順に……悪性腫瘍。まじ怖い。卵巣のう腫。卵巣ないです。鼠径ヘルニア。鼠径……ヘルニア?
鼠径ヘルニア。立ったり、おなかに力を入れると下腹部に丸いふくらみが出て、横になっておなかの力が抜けると引っ込んでふくらみが無くなる……
それです。それ。こんなに症状がピンポイントで合致するの初めてだ。散歩で見つけた植物を「赤い花 びろびろ」みたいなしょうもない検索ワードでなぜか同定できたときと全く同じ喜びがあった。で、鼠径ヘルニアって何よ。怖い病気?
鼠径ヘルニアとは脱腸のことです。筋力が弱まると鼠径部の穴に腸の一部が入り込んで出てきてしまうことがあります……
脱腸。急にまぬけみたいになった。いやまぬけじゃない、腸が出ていても立派な人はきっと居る。でも、あるべき場所に無いというのは、なんかこう、なにかしらのまぬけさが付きまとう。しまわないと。腸はしまわないとダメだから。ほんであの、ピンポン球のやわらかい感触、するとあれは腸か。なるほど。自分の腸ってあんな感じか。初めて自分の内臓に間接タッチしました。ありがとうございました。
よくよく調べると、男性はそこにもともと穴があいているために腸がニョロンと出やすいのだそう(もともと穴があいてるな!)。年をとって筋力が弱まってくると罹りやすいらしい。要はおじいちゃんがなる。おじいちゃん……あとは腹圧をかけるとムリッと出てきやすいらしい。ああ、これにはとても自覚がある。最近、事務所の引っ越しをした。重い荷物を持って何往復かした。あれかなあ。あれだろうなあ。こんな病気があると知ってたら台車使ったのになあ。いずれにせよ、僕はいま腸が出ている。事務所は茅場町に引っ越した。東京駅の近く、すぐそこに日本の中心がある。少し歩けば隅田川に出る。視界が一気に開ける。向こう岸は富岡八幡宮で有名な深川だ。はす向かいのもと漁師町・佃島には今や大きなマンション群がそびえる。目の前を扁平な船が通る。松本零士デザインの水上バスだ。窓は半透明になっており、中で観光客がはしゃいでいるのが見える。僕はいま腸が出ている。
ただまあ、別の病気の可能性も捨てきれないので、ちゃんと腸が出ていることを証明しないと少し心配である。そういう時に行くやつといえば病院だ。鼠径ヘルニアは何科へ行けば良いのだろうと思って調べたところ「そけいヘルニアクリニック」みたいな名前の、もうそれを専門としている病院がたくさんあることを知る。というか、見たことあるわこの字面。そけいヘルニア。ひらがなにするとめちゃくちゃ既視感がある。散歩中に街の看板で見たことがある。ただ、意味は知らなかった。ヘルニアといえば腰が有名だから、形成外科のクリニックかな? みたいに勝手に解釈していた。今なら分かるのだが「ヘルニアとは体内の臓器などが本来あるべき部位から「脱出・突出」した状態を指す(出典:Wikipedia)」一般的な用語で、椎間板ヘルニアと鼠径ヘルニアは飛び出すものが違う。前者は椎間板が飛び出し、後者は腸が飛び出す。勝手に飛び出さないでほしい。
話を戻すと「そけいヘルニアクリニック」というものが各所に存在する。この事実は、これだけで商売が成立するくらいの患者が世の中に存在することを示唆している。つまり、いまこの時にも腸が出ている人がたくさん居るはずだ。鼠径ヘルニアの初期は症状が殆ど無いことが多いらしい。かくいう僕も無症状であり「それ」を偶然発見するまで気づかなかった。まあ、強いて挙げれば、足の付け根が少し痺れるなと思ったことはあった。関係してるかは分からないけど。それくらいなので、放置している人は多い、気がする。気がする、と言ったのは、これだけ、この、この看板だけで商売が成り立つくらいのメジャーな病気のはずなのに、僕は今まで脱腸患者に会ったことがない。これはおかしなことだと思う。つまり彼らは世間にこっそり紛れている。彼らは腸を出しながらチェロを弾いたり、腸を出しながら茸のオレンジソースがけを運んだりしている。音楽は見事だし、料理はおいしい。ただ残念なことに、彼らは腸が出ている。それを聞き、それを食べる僕も腸が出ている。世界はこのように出来ている。見え方が変わったのではないだろうか。
「そけいヘルニアクリニック」のサイトには、症状についてさらに詳しいことが書かれていた。いちど脱腸になったら自然治癒はないこと(つまり腸はこれからどんどん出てくる)。歩くときにけっこう痛いこと(僕はまだそこには至っていないだけ、ということになる)。穴から出た腸がそこで捻れた場合、腸の血流が止まって壊死するのでそこを切って繋げる大変な手術になるからそうなる前に初期で治すのがお勧めであること(怖すぎる)。
なるほど、これはですね、すぐに治しましょう。最近一般的になっている治療方法はわりと分かりやすいもので、穴の部分に腸側からメッシュを置いてふたをしてしまう。そうすれば、物理的に腸は出なくなる。明快な手術で素晴らしい。メッシュは数週間すれば体に定着してしまうらしい。再発率がとても低いというのもうなずける。ただ、簡単に言うけどそれを実現するためにはお腹の内側にメッシュを入れることになる。どうやって? TAPP法とかTEP法とかいう傷口が小さくてよく採用される手術方式は、腹腔鏡をおへそから入れる、と書いてあった。意味が分からないんですけど。へそって穴あいてると思ってます? あいてませんよ? 何言ってるんですか? 頭おかしい人が書いてるのかな?
そういうわけで、まだ診察も受けていないのに手術を受けないで済む方法を模索しはじめた。穴を外から抑えて腸を出さないようにするサポーターのついたパンツがネットショップで売っていた。口コミもいっぱいついている。ほら、やっぱりみんな言ってないだけで腸が出ているし、出たまま生活しているんですよ。このパンツはいちど買い物カゴに入れた。これを常用することで腸が出ていないことに出来るのであれば、もうすべて無かったことにできるのではないだろうか。それは手術からの逃避では? ならば問おう。腸を抑えるパンツと乱視を抑えるメガネと何が違うのか、あなたは説明できるだろうか。これは腸のメガネだ。「もう2年常用しています、最高です」の口コミが頼もしい。全然これでいい。ふだん履きのパンツがぜんぶ変態仮面みたいな形状のやつになるだけのことだ。
違うわ、腫瘍ではないことを一応確認しないと心配なのだった、と思いなおしてパンツをカゴから削除して、隣町にある鼠径ヘルニアクリニックへ向かったのはわりと早かった。膨らみを認識して1ヶ月目くらいだった気がする。僕の中ではかなりの即断である。その間、パンツはカゴと商品棚の間を10往復くらいした。