前日は21時から絶食だった。全身麻酔は嘔吐の危険があるらしく、そのときに嘔吐物で気道が塞がれてしまうことを防ぐ意図とのことだった。早めに床についたけれど眠れず、積んだ本などを消化して過ごした。本から目を離すと、負の思考が頭をもたげる。だいたい、痛くないのにいま手術を受ける必要があるだろうか。ない。ないな。受けなくて良い説が断然説得力を持ち始めた。その論拠は2つあった。
一つは、リスクの問題だ。外科手術はリスクが伴うので、確率が低いものでも一応すべての説明がなされる。今回の手術では「臓器損傷」「精管の損傷」「膀胱の損傷」などのリスクが挙げられていた。あとで自分の手術のビデオを見せて貰う機会があったのだけど、その鼠径部の「穴」の周りは本当に、精管や神経のジャンクションのようになっていて、医者はそれを巧みに避けながら鉗子をパチパチと操作していた。この損傷リスクを、自覚症状の無い今、背負う必要があるかね? という問いは有効だろう。
もう一つは、「僕は鼠径ヘルニアではないのではないか?」という問題である。こいつ、手術前夜に何を言っているのかという話なのだけど、こういう論拠だ。半年前の初診で先生の触診を受けて「あーはい、そうですね」とは言われたんだけど、数十秒のタッチによる判断、誤診はゼロではないだろう。だから僕は、下腹部CTで「確かに鼠径ヘルニアですね、脱腸映ってますね」と確定することを実は期待していた。スポーツでいうところのビデオ判定だ。しかしCTの結果には「鼠径ヘルニアは指摘できません」と書かれていた。この理由は単純で、前述したとおり、軽い脱腸は寝ると元の場所に引っ込む性質があるから、寝て撮るCTには映らない。だから「鼠径ヘルニアは指摘できません」の意味は「鼠径ヘルニアではない」のではなくて「この映像に鼠径ヘルニアは映っていない」ということだけなんだけど、「指摘できません」というおめでたい言い回しが「は? じゃあ手術受けなくていいってこと?」という思考を引き出した。金玉を3つぶらさげて、僕はそんなことを考えていた。やりたくねえー。
そのうちグーグー寝てしまって、手術当日の朝になっていた。子供たちがバタバタと支度するのを急かす役目があるので、8時までは一瞬で時が溶けた。幸い手術は9時からと早い。そのクリニックは午前中を手術の時間に充てていて、9時、10時半、12時の3つから選べたが、早く終わりたかったので迷わず9時を選んだ。手術の時刻を早くして本当に良かった、と思った。これが12時からの手術だったら、あと4時間「僕は鼠径ヘルニアではないのではないか?」とかクソみたいな思考を続けるところだった。
それでクリニックまで向かったのだけど、8時半に到着してしまった。早すぎる。手術が待ちきれない人みたい。それで病院の区画を一周してみたんだけど、暇になるとやはり「やりたくない」という思考が頭をもたげる。風邪を引いたということにして帰ってしまおうか。だいたいさあ、痛くないんだよ。痛くないのに手術して内臓損傷したらどうするの? あなたは納得できる? 風邪だ。風邪を引こう。今なら間に合う。電話を取り出したりしまったりした。
暇な30分が、負の思考を次々に繰り出す。古代ギリシア人は労働を奴隷に任せることで暇を作り出し、傑出した文化を創造した。余暇は人間を豊かにする。同時に良くない考えも生み出す。ならば今回はギリシアの「逆」をするのが良いだろう。労働だ。あと30分、何か労働的なものに没頭したい。どうしようと思ったら、ちょうど歩いて10分ほどのところにATMがあるのを思い出した。取引先に入金する作業が何件か溜まっている。あれをいまやってしまおう。これがめちゃくちゃ危なかった。手術が嫌過ぎてフワフワしているから、桁を1つ間違えて入力して消したりした。確認画面が全然頭に入ってこない。なんで今これやったんだろう。手術前に大きなお金を扱うのはとても良くない。病院には2分遅れて到着した。
医者は既に到着していて手術しそうな服を着ていた。「あ、今日はよろしくお願いしますね」なんて言って、小さなあくびをした。あっ! さては眠いな! 大丈夫なのか! 9時にしたことをはじめて後悔した。そのあと「右ですよね」なんて言ってきた。ともすると酷いボケ発言だが、これは確認のためだろうとも思った。僕もいちおう「右ですよ」とどこかで念押ししたいと思っていたので都合が良かった。なにしろ、触診が半年前なのだ。覚えているほうがおかしい。さらに言えば、半年間も案件を寝かしたのは僕だ。