【二度目の入院の話 】4.大橋さん

 入院は手術前日から始まる。
 朝八時、自宅でムーベンというふざけた名前の下剤を2リットル、ヒイヒイ言いながら飲んで大腸の中を無便にしたあと、例のクリニックへ電車で向かった。手術後数日は肛門が機能しなくなるので、これからしばらく絶食となる。
 入院の説明をひととおり受けたのち、検査室で大腸内視鏡検査を受けた。この手術コースは、前日に内視鏡検査を受けるオプションを選択できて、僕はうっかり丸をつけた。
 おしりにカメラなんて普段は絶対に入れたくないのに受診したのには理由がある。僕は下剤とか、バリウムとか、強制的に大量にものを飲まされる慣習が本当に信じられない。軍の拷問から来ているのではないかと疑っている。しかし今回、手術のためなので仕方なく飲む。そして、せっかく下剤ミッションをこなすのであれば、ついでに内視鏡もやったほうがお得なんじゃないかと思ってしまった。翌日はもっと怖い手術なのだから、内視鏡検査オプションが相対的に簡単なタスクに見えたというのも大きい。とにかく、僕が当時置かれた状況は、積極的に内視鏡を肛門に入れていく、おそらく人生で二度と無い状況であった。
 実際簡単だった。半年前に院長のゴッドハンドで初体験を済ませていたから括約筋を弛緩させるのに慣れていたというのはひとつあるかもしれないけれど、点滴で鎮痛剤を落としながらやってくれたので痛みは一切なかったし、腸壁の綺麗さを褒めてもらって嬉しかった。
 そのあと病室に案内される。残った鎮痛剤で朦朧としている中、艶めかしい看護師さんが重要な話をささやく。
「あなたは痛いことに敏感そうだから言うけど……明日は下半身麻酔で手術するでしょ、この麻酔は腰椎というところに注射を刺すのね。この、おしりの背骨のところ。そこにね、ドスッ! と刺すの。そのときにね、どうか動かないで欲しいの。すごく危ないから。腰椎の周りには大事な神経がいっぱい走っていて、そこが傷ついたら本当に大変なのね。そこだけ動かないで我慢すれば、あとは何も感じないから……わたし、あなたがねえ……すごく心配なの」
 確かに、先ほど簡単だったと書いた内視鏡検査だが、僕は「ウワー」とか「ヒャー」みたいな声をよく出していた。痛みはなかったけど腸のなかで何か動く気持ち悪さはあったので「たまやー」みたいな景気付けの気持ちだったのだが、周りの人を不安にさせていたようで申し訳ない。
 とにかくそれで、明日の腰椎麻酔の練習をしましょうということになった。僕はベッドの縁に前屈みになって座る。後ろから刺されると分かって座るのは怖い。介錯を待つ武士みたいだ。
「はいお願いします」
「じゃあ、いきますね」
 看護師さんが、中指を少し曲げた一本拳で僕の背骨をドンと突く。
「アギャン」
「だから駄目だって動いちゃ。ちょっと練習しといてね。ほんと、動かないでね。私から言えるのは……それだけ」
 艶めかしい看護師さんは艶めかしく出ていった。いや、今のは背骨にマジで一本拳入ったから。あいつの技のベースは極真だろうか。
「練習しましょう!」
 突然声がしたので後ろを振り向くと、隣のカーテンとカーテンの間から男が首だけを出していた。首だけが浮遊している感じに見えてすごく面白かったんだけど、その男は首をちょっと上下に動かしていて、意識的にやっていると分かったので笑うのをやめた。
「俺、大橋って言います。あなたも明日ですよね」
 このとき、この病室内の患者が全員、明日の手術を控えた身であることを理解して、少し心強くなった。
「あっよろしくお願いします。腰椎の麻酔、怖いっすね」
「いやあ、俺もさっき脅されたのよー。あなたは動きそうだから絶対に動くなって」
 あの艶めかしい極真の使い手は、全員に脅しをかけていた。
 大橋さんは続けた。
「じゃあ僕が注射打つんで、座ってもらっていい?」
ちょっと楽しくなってきてしまった僕は、大橋さんに”注射”を打ってもらうことにした。
なかなか来ない。
「ドン!」
「痛っ! なんで掌底!」
「動いたよね?」
「いや、そりゃびっくりしますよ。『行きますよ~』とか言うでしょ普通。あと場所も違うし……」
 なぜか心臓の裏を打ち抜いた掌底はけっこう身体に来た。なんだこの練習。明日は大丈夫なのか。

 それから大橋さんといろいろ話すことになった。大橋さんは彫りの深い顔立ちをしていて、一日に数回だけかっこよく見えた。髪の毛を自然に流していて二十代にも三十代にも見えるが四十四歳で、タクシーの運転手を最近始めたらしい。痔はタクシー運転手の職業病で、先輩ドライバーからドーナツ型のクッションなどを勧められていたが無視していたら、いぼ痔が4個も出来て、仕事にならなくなったので切る決断をしたそうだ。何故先輩の忠告を無視したんですか、と聞いたら、「あ~。ロックだからなぁ~」と言った。そうかあ。ロックかあ。ロックの結果ここに居るのかあ。
 ちなみに大橋さんは、手術後に痛そうにしている患者に病院が斡旋してくる一万七千円のドーナツ型クッションをその場で購入していた。こんなところで買うよりも楽天とかでもっと安く手に入るだろうに、商売っ気のある先生が推薦するクッションをそのまま買うなんてどこの国のロックだよと思った。

 病室にはあと一人、熊田さんという熊のような体格のおじいちゃんが居た。65歳だそうだが胸板が樽のようで、絶対に戦ってはいけない人類の一人だと思った。「何かスポーツを」と言いかけたところ食い気味に「ラグビーよラグビー、昔のことだけどね」と返ってきて、僕たちは食い気味に「なるほど!」と言った。
そのあと「ラグビーやってる奴にはゲイが多いからさ、多いんだよ、痔が」と、全く定かではないし反応しづらいことを言ってきたので、僕は、この病室は当たりかもしれないと思ったのだった。