Hの系譜

息子のパスポート作りの付き添いに行く。

息子の通う中学校では2年生が英語研修という名のサイパン旅行へ行くのが恒例だったのだけど、コロナでずっと途絶えていて、代わりに沖縄へ行くという、もう英語あんまり関係無い、地金が見える感じになっていて。どっか行きたいだけじゃん? いちおう米軍基地訪問みたいなのが数時間あって、英語ちょっと触る。ちょっと。あとは国際通りとか行く。で、息子は今年2年生になって、どうせ沖縄旅行なのだろうと高をくくっていたら突然サイパン行きが復活した。本当にけっこう急に決まって積立金も若干増えて「おぅ……」となった。ちょうど同じ頃、いつも相手してくれてた米軍も「オゥ……」って言ってると思う。 飾り付けた長テーブル、冷めたターキーディナーの前に座って「コトシコナイ……オゥ……」ってなってる。

それでサイパン、旅行の手続きがいろいろある。息子はパスポートを持っていない。越境したことがないからである。だから、パスポートから作る必要がある。旅行当日までに用意すればいいかというとそんなことはなくて、なんやかんやの事前書類にパスポート番号を書く欄がある。そして書類の提出期限から逆算したらもう今日の午前中にパスポート申請行かないと詰むね? みたいな日があったのでようやく重い腰を上げた。ギリギリのコーナリングでサイパンを目指すぜ。パスポートの準備は面倒臭い。住民票。駅にある出張所で発行できると思っていたら本籍載ってるやつは区役所行かないとダメだった。これで2時間のロス。あと写真。写真はパスポートセンターで撮った。パスポートセンターと同じフロアに、さも公式施設かのように「お写真はこちら」みたいなプラカード持ったおばさんが誘導するちょっと割高の写真館が存在することは知っていて絶対使わないぞと思っていたんだけど、使うね。弱ってると全然使う。そこにあってくれて有り難う。

そこでなんとも微妙な(なんか普段より息子の髪の毛が2倍くらい膨れていた)(なんで?)息子の写真を入手して、パスポートセンターに申請書を出すわけだけど、まあ、僕は付き添いなので後ろの待合室みたいなところに座っていたら、受付の人に呼ばれた。未成年だから確認したいことがあるらしい。「後藤のローマ字表記は”GOTO”で良いですか? “GOTOU”や”GOTOH”ではないですね?」

わりと強く「はい”GOTO”がいいです」と言った。日本にナントカ藤さんはとても多いので多くの方がご存じだと思うけれど、長音記号が使えないときのヘボン式ローマ字では後藤は”GOTO”となる。これが原則だ。一方で「ゴト」や「ゴートゥー」と読まれてしまう可能性を防ぐために、パスポートではいくつかの方法が認められている。”GOTOU”という表記は「ウ」という母音の存在を強調する。 また「オー」と伸ばして読むことを明示する”GOTOH”という表記がある。とはいえ原則は”GOTO”で、大抵の人はそれを選ぶ。

ところで僕のパスポートの表記は”GOTOH”で、最後に「H」がついている。僕はずっと名前のローマ字表記に「H」をつけて生きてきた。きっかけは良く覚えている。小学生の頃、ユタ州出身のおばあさんが2人でやっている英会話教室に通っていた。教室に行くまでどっちのおばあさんが担当するか分からない謎のシステムだったんだけど、どっちも怖かったのでどちらでもほぼ同じだった。その教室では先生のめくるフラッシュカードを見ながら全員で発音するコーナーがあったんだけど「December」を「爺さんブ~」と全員で言うのがもうずーっと流行っていて、まあ小学生だから大目に見てほしいのだけど、お約束的にずーっと流行っていて、それに対して、おばあさんもずーっと怒っていた。諦めたらいいのに、ずーっと怒っていた。このプリプリおばあさんの一人を一度シュンとさせてしまったことがある。教室の近くに洋服屋があって、母親の洋服を受け取る用事を済ませたあと、その紙袋を持って教室へ行ったら、おばあさんがその紙袋を指差して「For me?」と言ったのだった。冗談かと思ったけど「No……」と言ったら、本当にシュンとしてしまった。そのテンションのまま、その日は授業が終わった。ユタの塾では生徒が先生に服をあげることがあるのか?

それはいいんだけど、そう、そこの生徒名簿に自分の名前が「Yasunori Gotoh」と書かれていて、初めて見たときに、震えた。学校で習ったローマ字と違う。「H」ついてる。アメリカではこう書くのかしら。怖いおばあさんのどちらかに一度その理由を聞いた気がするけど、すぐに忘れてしまった。よくわからんがかっこいいな、という気持ちだけが残った。

それから中学、高校、大学と、名前のローマ字表記を求められるシーンでは「なんかかっこいいから」という理由で「H」をつけ続けた。大学卒業間近の頃、銀行に就職した先輩のノルマ達成の手伝いでクレジットカードを作ったんだけど、そのときにもローマ字表記に「H」をつけた。”GOTOH”と書かれたかっこいいクレカが届いた。自分で書いたんだから当たり前だけど。いや、当たり前じゃないこともある。カレーバーグディッシュの150gを頼んだのにチーズバーグディッシュ100gが運ばれてくることがある。全部違うじゃん。自由演技のお店なの?

バーグディッシュはいいんだけど、大学を卒業する少し前、友達と中国へ行くことになってパスポートの申請に行った。申請書のローマ字表記欄でも普通に”GOTOH”と書いた。その申請書を出すと受付の人がこう言う。「原則は”GOTO”ですが、”GOTOH”にしますか?」

原則から外れる覚悟を問われている。「何故あなたは『原則』ではないの?」と聞かれたとき、それを撥ねのけるポリシーがあれば良いのだけど、そんなの一切無い。こちとらファッションの「H」なのだ。だからすぐに折れた。普通に考えて、国のなんかそういうやつは、原則とやらに倣ってスルッと通過したほうが無難だろう。

それで「あー、じゃあ”GOTO”にします」と言ったのだけど、「クレジットカードの表記と一緒ですか? 表記を統一することが望ましいです」と聞かれた。外国でクレジットカードが使えなかったり紛失したりしたとき、パスポートと綴りが違うと面倒なのだそう。は、なんだそれ。じゃあ”GOTOH” 一択じゃん、先に言ってよ。結論から言えば、先日頼まれて適当に作ったクレジットカードによって、パスポートのローマ字表記が既に決定してしまっていた。えー、あのときかー。あのとき俺の運命決まってたかー。

このあと芋づる式に、様々なシーンで求められるローマ字表記が必然的にそれになっていった。例えば、クレジットカードで決済する海外のサービスの登録欄では”GOTOH”を名乗ったほうが問題は起きないだろう。自衛的な側面が大きいのだけど、不一致によって問題になることは実際あるんじゃないか。しらんけど。新しいクレカを作るときも、パスポートに合わせたほうが良いということなのでそうなる。このように「H」から降りられなくっていった。

いろいろなものに”GOTOH”でサインし続けた。今のところ、こちらでハンドリングできるやつは全部”GOTOH”で揃えるという方針でやっている。どっちだっけ、と考えるのがめんどくさいからなんだけど、そのせいでたまに迷惑を掛ける。例えば組織に所属すると発行してもらえるメールアドレスなんかを「できれば”gotoh@”にできますか?」なんてお願いする。先方は「いけますよ~」なんて言っておいて”goto@”で発行する。みんな見てないんすよ。 カレーバーグディッシュの150gって言ってんのにチーズバーグディッシュ100g持ってくるんすよ。ただまあ、こっちのわがままですから「へへ……めんどくさくってすいやせんね……」といって”gotoh@”に変えてもらったりする。その数日後、総務から”goto@”と印刷された名刺が100枚届く。みんなは悪くない。僕がgoto@で妥協しておけばよかったのだ。お客さんから「後藤さんにだけメールが届きません」と言われる。良く聞けば先方は「どうせ”goto@”だろう」みたいな感じでカンで送ってきている。カンでメール送るなよ! 重要インシデント! と思うけど、ふつうこの賭けは何の問題もなく成功する。僕がふつうでないせいなのだ。

ここまで来るとちょっと自分は”GOTOH”であるという自覚が生まれているのだけど、”GOTOH”として過ごした半生を振り返って、そうまでして「H」はつけたくなかったな、というのが正直なところである。ふつうが一番いい。

息子には絶対に「H」は勧めない。”GOTO”にするだけで、イージーな世界が待っている。

だから僕は「はい”GOTO”が良いです」と強めに言ったのだった。すると受付の人が「お父様のパスポートも”GOTO”ですか? 家族と一緒にするのが原則なので一応伺っています」と言う。えっ、いや、僕は”GOTOH”なんですよ、というと、じゃあ息子さんもそうしたほうがいい、家族で表記が違うと家族旅行のとき入国審査でトラブルのもとになると言われ、んー家族で海外旅行の予定はないけど、可能性はゼロではないし……とか言っているうちに息子のパスポートも”GOTOH”になった。それはもう遠い昔に決まっていたことだった。その理屈で言うと姓が変わってからパスポートを作っていない妻もこれから作ると”GOTOH”になる。あれ、孫が出来た場合も”GOTOH”になるのか? 僕のファッションの「H」が子孫に受け継がれていく。