息子の通う小学校にダンス発表会を見に行ったら、DA PUMPのU.S.A.に、ひょっこりはんの動きを採り入れていた。
「んんっ!?」と思いかけたけれど、食い合わせについてツッコむのはもはや時代遅れな気がしたので踏みとどまった。 きょうび、いろいろなものが食い合わせの限界に挑戦している。 例えばこれがフェスだとしたらどうだ。DA PUMPとひょっこりはんが同時に呼ばれたフェスでコラボするとか十分ありえる。そういう時代である。食い合わせについては公式が率先してボケていく方向にあるので、特に意見は無かった。
でも、ひょっこりはんの振り付けで「んんっ!?」と思った。
舞台にひょっこりする場所が無いので、ハンカチを目の前に用意していた。
そして8回ひょっこりした。児童たちは、ハンカチの横から8回顔を出した。
ひょっこりするたびに、先生と児童の「ひょっこりーっ!」「ひょっこりーっ!」というかけ声が響いた。
ひょっこり部の朝練かな? と思った。
ひょっこりはんのいいところが全部抜け切っていた。しいたけは焼き過ぎると旨みが全部抜けてしまうけど、多分この振り付けをした人はしいたけをカリッカリに焼くだろうな。そしてデスソースかけて食べるんだろうな。
そもそも、なぜ隠れる場所が無い舞台でひょっこりしようとしたのか。隠れる場所が無い、そのハンデを素人がひっくり返せると思ったのか。これは本家でも難しい。もしひょっこりはんが見渡す限り平面の砂漠で生を受けたとしたら、ひょっこり芸は生まれなかったのではないか。
いや、生まれるか。ただ、ミーアキャットみたいな感じで、上にひょっこりするだろうな。地下に隠れるしかないから。横へのひょっこりは思いもよらないだろうな。
偶然オアシスの街で見かけた都会のひょっこりはんが横の動きをしていて、砂漠のひょっこりはんは「横!!」ってびっくりするだろうな。街には遮蔽物が溢れ、ひょっこりのバリエーションは無数にあった。想像は無限と思われがちだけれど、本当に無いものは想像すらできない。5次元のひょっこりはんは、3次元の我々には想像もつかないひょっこりをするのだろう。
どんなひょっこりもその成立過程において世界を内包することになる。そう考えると、それぞれのひょっこりは必然的に生まれたものであり、 とても愛おしいものに思えてくる。小学校の舞台で生まれたひょっこりは、ハンカチを使う。ハンカチは全員持っていくことになっている。学校で生まれた、エチケットのひょっこり。それを8回行う、規律のひょっこり。なんだ、いいひょっこりじゃないか。
ただアンコールで2回見るのつらい。