【二度目の入院の話 】10.脱走の理由

 手術前には考えもしなかった事実の一つに、手術後一ヶ月は傷口から血が出続けるしわりと痛いということがある。早く回復したら退院が早まるかも? など想像していたが、痛い一ヶ月のうち、人としての生活が厳しい十日間を病院で過ごす、というのが入院の正しい意味だった。

 基本的に入院患者の診察は外来受付時間前の朝にまとめて行われるが、たまに病院側の都合で午後になることがあった。僕らがロビーで順番を待っていると、外来の患者さんも混じってくる。看護師から手術の説明を受けている人も居る。
「えーっ? 十日も仕事休めないんですけど。三日くらいで帰れないっすかね~」
「三日だとまだ相当痛いと思いますので、当院では十日間の入院をお勧めしていますが……」
「いや、俺は大丈夫っすよ」
 そういうやりとりを何度か見た。おそろいの入院着に身を包んだ我々おしり部は、それをニヤニヤして眺める。威勢の良い勘違い坊や……あなたのおしりは、まだ何も知らないのね……
「あいつに俺の肛門を見せてやろうか」
 大橋さんがつぶやいた。それもいい、と少し思ってしまった。診察などで先生や看護師に毎日何度も肛門を見せるので、だんだんと肛門を第三者に晒すことに抵抗感が無くなってくる。退院後、妻に「今さ、こんなになってんだよ~」と思わず尻を見せた。妻がちょっと引いたようなそぶりを示したのでハッとした。妻に積極的に肛門を見せたのって初めてだったかもしれない。入院のせいで「ちょっとこの服見て」みたいな感じでカジュアルに肛門を晒す仕草が身についていた。

 ちなみに、十日も仕事を休めない人は、いろいろ比較検討するのはいいと思う。下半身麻酔をしない手術、切らない手術など、回復の早い手術方法があるらしい。同じ症状でも、病院が変われば判断が変わることもあると聞く。僕は院長に入院を勧められ、納得したまでだ。

 診察が終わって、皆でよたよたと階段を上って部屋へ戻る。まだおしりをかばって歩いているが、初日に比べたら背筋が伸びてきた気がする。歩きながら会話する余裕が出てきた。だんだん現生人類に近づいてゆく。進化人類学的に興味深い現象なのではないだろうか。そんなことを考えていたら大橋さんが、
「俺さあ、ちょっと外に買い物行ってくるわ」と言ったので、
「えっ何ですか?」
 と普通に聞き返してしまった。外出許可なんて出るのかしらと思ったが、こっそり出かけるという。そして私服に着替えはじめ、外来の患者に紛れて本当に出かけてしまった。何故か残された僕がおろおろしてしまった。だいたい我々は歩き方が未だ人間ではないのだ。そんな状態で街へ出たら「あっお前、肛門科からの脱走者だなッ!」と見抜かれてしまう。「いいえ違います」なんて言っても相手は「それなら、これに座れるよなあ?」とバリ堅椅子を持ち出してくる。肛門科の脱走者を見分ける昔からの方法。そこで終いだ。行ってはならぬ。ならぬぞ~!

 幸いすぐに戻ってきて事件にはならなかった。命を賭して何を買ってきたのかと思って尋ねたら「五百円」だと言う。会話が成立しなくて怖かったが、よくよく聞くと、天皇か何かの記念硬貨が今日出るらしく、金融機関の窓口で買えるんだそう。
 なるほど、大橋さんは趣味のコインで命をスクラッチするタイプか、と思ったらそうではないらしい。
「タクシーのおつりで使うと、お客さんが喜んでくれるかなと思って」
タクシードライバー大橋の斜め上のサービス精神だった。ちなみに後日、友人で個人タクシー運転手をしているぜつ氏にこのことを話したら「いや~聞いたことないっすね~」と言っていた。大橋さんオリジナルのサービスなのだろうか。それほどのタクシー、ちょっと乗ってみたいなと思った。
 駅のタクシープールで張るタイプだと言っていたのでいつか出会うかもしれないと思っているのだが、あれから三年、大橋さんとの再会は果たせていない。