床屋

床屋が定まらない。

二十代の頃からずっと、元町にある美容室で髪の毛を切ってもらっていたんだけど、コロナの緊急事態宣言のなんやかんやでちょっと足が遠のいて、それでも髪は伸びるでしょう、だから慌てて駆け込んだ、なんだ、あの、切るの速くて洗髪もない感じの美容室みたいなやつがまあまあ良くて。何が良いって、予約無しで行けるのが相当に良い。だいたい僕みたいなもんが「髪の毛切ろうかなあ?」なんて思うときはもうすべてが手遅れなんですよ。すべてが。あなたの想像している「手遅れ」があったとして、それをツガイで飼って十世代増やした感じ(※「手遅れ」のメスは一度に100匹前後の子を生む)なんですよ。だから急いで電話してんのに「1ヶ月後の木曜はいかがでしょう」じゃないんですよ。美容室に電話したときのこっち側とあっち側の温度差で発電できる。パーマとかその電力使ってやってるらしい。

ときに近所の大学病院には夜間窓口があって、紹介状を持っていなくても8000円だかを払えば当直の医者が診てくれる。まあ高いのだけど、息子が高熱で痙攣を起こしたときに一度だけお世話になった。苦痛や心配事を今すぐ取り除くために、人は金を払う。だから今すぐ行ける美容室なんてあれば割り増しで払うなと思っていたんだけど、あの美容室、2200円なんだよな。安すぎない? まあ、ああいうお店は回転率を上げて稼ぐという思想だから今話してるのとは全然違うビジネスモデルなんだけど、「今すぐという価値に金払いたい勢」からしたら、えっ、速いのに安いの? なんでなんで? みたいな、価値観の違う国に迷い込んだ感じがする。異文化交流している気分になる。「はい、このクニでは、速いものほど安いのです。だって、取り掛かるのがあとになるほど『マナ』は増え、世界に拡散してしまいますよね?」

よね? って言われても知らないんですけど、そう、それでしばらくその安くて速い美容室へ行っていたんだけど、これが、本当にまちまちなんですよ。まちまち。すごく上手い人とすごく下手な人の差がすごい。なに、店に割り振られるスキルポイントが決まってて一人に全振りしてんの? この前襟足が見事に段々になっていて笑っちゃった。マナ増やしてもいいからもっと時間かけろや。

それでその美容室も足が遠のいてしまったんだけど、じゃあどうするかって、もう近所の床屋で良いんじゃないか、という気がしてきた。正直なところ、その、ふつうならなんでもいいんですよ。ふつうをくれ。床屋の無印良品をくれ。

ほんでホットペッパービューティーなんかで近所の美容室とか床屋とかざーっと見て、ふむふむって、あの、ここで気をつけないといけないのは「おじいちゃんだけを相手にしている地元の床屋」というのがあって、ああいうところは気をつけないといけない。僕は小学校時代、父親に連れられてそういうところへ行っていたんだけど、彼らの世界には角刈りとスポーツ刈りしか存在しなかった。「角刈りとスポーツ狩りどっちにする?」といつも聞いてきたパンチパーマのおっちゃん元気かしら。あれを見て僕は、大人になると三番目の選択肢「パンチパーマ」が選べることを悟った。悟るな悟るな。そういう疑いのある床屋を華麗なステップで避けつつ、いちばん「ふつう」そうなところを選んだ。「カットハウスB」みたいな、3~40代の男性理容師のところ。カット例にも大学生からおっちゃんまで載っていて、それっぽいのもひととおりできます、みたいな。あれが得意だの、ここに気をつけてるだの、そういうイキリも一切ない。ふつうだ。よしここにしよう。それで電話をしたら、明後日行けるという。そうそう、そのくらいのスピード感よ。それで当日行って、まあ、どうしますかーなんて言って、じゃあ2センチくらい切ってくださいーなんて、いやだから、俺の望みは2センチくらい切ってもらうことだけだから、これでいいのよ。

それでまあ、けっこう気さくに話してくれるほうだったのでふつうに喋ってたんだけど、なんーか、そうねえ、話は弾むんだけど、直感的に、この人とは合わないのではないか、 という、なんでしょうか、不安みたいなものがあって。でも、どこが? と具体的に問われると分からないし気のせいかもしれないし……とか思っていたんだけど、洗髪しながら「ところで、誕生日が年齢含めて完全一致してる」と告げられる。ホットペッパービューティーで予約したから、向こうは僕の誕生日を見て、おっ、と思ったらしい。めずらしいですよね、日付が同じ人は何回か会ったけれど、年齢含めると僕は初めてかもしれない。それで「へえ~偶然っすねえ~」なんて言ってたら「誕生日一緒だから悪く仕上げないっすよ」みたいなこと言ってきて、「は?」って。「は?」ってちょっと言っちゃった。床屋側が「悪く仕上げる」という選択肢があることをほのめかした時点で、不可逆な変化が起きる。例えばシェフが「毒を盛らないから安心してください」って言った時点で戦慄が走る。たとえ実行しなくてもそういう選択肢が想像の範疇にある人、ということになって、もうダメじゃないですか。そういうことですよ。この床屋、悪く仕上げるというコマンドあるか~。なるほど~。その可能性を全く考えたことがなかったものだから、すごく怖くなって。こいつの機嫌を損ねたらジャギジャギにされる。 ほら、最初の直感って当たるんだよ。 この床屋はダメだ。

ところで、この床屋というのが、人の話でめちゃくちゃ笑う。めちゃくちゃ笑ってくれるの。俺が小学生の頃富士登山の最初の売店でうっかりだいじょうぶだあ太鼓買っちゃってその後ずっとリュックからだいじょうぶだあ太鼓の三つの柄がワイルドに飛び出てて富士登山の記念写真全部に写ってる話、そんなに面白かった? めっちゃ笑ってくれるじゃん。この床屋大好き!!

というわけでその一点だけで何度か通って、3回目くらいかな? 床屋がめちゃくちゃ機嫌悪い日があって、一言も話さない。ので僕も一言も発しなかった。そういう日があった。よくわからんけど、レジに居る奥さんもムスッとしてたから多分奥さんと喧嘩したとかだと思うんですけど、客にそんな態度をとるのはどうかしてるし、ほら、最初の直感は当たるんだよ。ダメだよ、この床屋。それで今、ジャギジャギよ。